ある本に見習い修行中の悪魔の弟子達のことが書かれていました。この弟子達は地上に派遣されるに当たって、その悪魔の頭にどうしたら人を堕落させられるかを尋ねられるのです。言わば卒業試験というものです。
第一の弟子がいいました「私は人間に神はいない」と囁きます。頭は言いました「そんなことでは人を騙すことは出来ない。多くの人は神の存在を感じている」
第二の悪魔は「私は地獄などない」と囁きます。頭は言いました「そんなことで騙される人はいない。人間は心のどこかに自分がしたことはいつか裁かれるのではないかという恐れに生きているのだから」。
第三の悪魔が言いました。「私は急ぐ必要はない」と言います。すると頭は言いました「行きなさい。お前は多くの収穫を得ることができるであろう」。

なぜ「急ぐ必要はない」なの?
答えはこちら。今日、お話したメッセージです。
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その日、その時、あなたは?
ペテロ第二の手紙3章8節‐14節
2008年3月2日
世の人は牧師のことを宗教家と呼びます。その宗教家として、してはいけないことがあるといつも肝に銘じていることがあります。それは人の恐怖心を煽って、人を信仰へと導くということです。「こうしなければ呪われる」とか「あなたの運命は大変だ」「だから信じなさい」というようなことです。今でも日本では地域によっては「あなたの家の墓石がずれているから、今度建てた家の方角が悪いから、あなたの祖先が怒っています」と言う人達がいます。
でも、実際に脱いだものをあちこちに放っておくようなあの無頓着なおじいちゃんが、墓石が5センチずれているから怒るのでしょうか。自分を犠牲にして子供や孫を育ててくれたあの優しかったおばあちゃんが、一生懸命に自分の息子娘が建てて喜んでいる新築の家に激怒して、その家族に災いを与えるのでしょうか。爺婆は基本的に自分の子や孫のことを本当に思い愛している。その彼らがそんなことするはずがないと思うのですが、いかがでしょうか。
また、このような恐れ以外にも、これまでに、そして今も多くの宗教家達はあることをもって人々に恐れの思いを与えてきました。それにより社会全体が大きく動揺したこともありました。それはこの「世界の終わり」ということです。すなわち「終末」ということです。やはり誰の心にもこの世界の終わりということは引っかかっているものです。この終末をテーマにした映画が毎年、数本は放映されているところにその関心の高さがうかがいしれます。
この最後の日について具体的な日時まで提示されたりしますと、そのことに影響を受けて、人生を棒に振ってしまう人達がいます。実際にもう世の終わりなのだがら家族や財産を捨てて、それに備えようとした人達というのは実際にこれまでも数、多くいるのです。しかし、それらのかつて指定された日時は全てことごく外れました。もし、当たっていましたら今、この世界はないのですから。あの有名なノストラダムスも最近は聞かなくなりましたが、それは「1999年7の月に恐怖の大王が来るだろう」という彼の預言が見事に外れたからです。
ですから、これらのことをもって人々の心に不安と恐怖を植えつけてはいけないと思います。しかし、それは聖書が書いていることを語らないということなのかというとそうではありません。やはり教会はこの世界の終末について聖書が何と言っているのかということを語らなければなりません。そこで今日は私達の「あなたは何を観ていますか?」シリーズの最後として、この聖書的終末観についてお話ししたく願っているのです。
いったい聖書はこの世界の先行きについて何と言っているのでしょうか。結論から申し上げますと、聖書はこの世界はやがて滅びると言っています。これは聖書を貫くメッセージでありまして、そもそも、この聖書の見開き一番最初の言葉が「はじめに・・・」という言葉で始まっているように、「はじめ」があればやがて「終わり」があるのです。だからといって、先ほども言いましたように、この聖書が言う終末ということによって、人の恐怖心をいたずらに煽ってはいけないことですし、もし、私がいつか「世の終りの日時」などということを言い出したりしたら、即、この教会から追い出していただけたらと思うのです。
実際に聖書は、その日のことは誰も知らない。神だけが知っているというのです。マルコ13章32節においてイエスははっきりと「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と言っています。世界のどこかでまたカリスマ性のある人間が、その日時を言い出したとしても恐れる必要はなにもありません。何人もその日のことは知らないからです。
それよりも今日の落穂にも記しましたように、信仰があるないに関わらず、世界中の人々が今、地球の存亡について不安を感じている時代にあって、私達は「このことを知ってください。恐れる必要はありませんよ」と声をあげて語り続けなければなりません。そして、そのことを心に刻まなければなりません。なぜなら、この終末を知り、それがいつきても大丈夫だと備えるということこそが、実は私達の今の幸いな生涯に大きな影響を与えるとことこそが聖書のメッセージだからです。
この世の終わりについて、その時にはどんなことが起こるのだろうかということを私は思います。同じことをイエスの弟子達もイエスに直に聞いたことがマタイ24章には記されています。
3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
イエスはその言葉を受けてこう言われました。4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。8かし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
ここには世の終わりの兆候として、以下のことが書かれています。
●偽キリストの出現
今日のカルト宗教の多くには教祖と呼ばれる人達がいます。その団体を建て上げた人です。そして、その多くの団体には確固たる神というものが示されていませんから、その中で誰かが神的なリーダーにならないといけません。そこで、このカルト集団のリーダー達はイエス・キリストの名を己が身に置き換えて信者達を洗脳します。そのような集団が今日まで世界のあちこちに生まれてきましたし、今日も世界のどこかで「自らをキリストと名のる者」が起されていることでしょう。
●戦争や戦争の噂
もうあえて言う必要はありません。それは噂だけではなくて、現実にアメリカもこの戦争の渦中にありますし、あの国とこの国が緊迫しているというようなことは世界あちこちで見受けられ、その火種はいつ炎をあげてもおかしくないものです。
●民族の対立
この箇所の「民は民に」というのが新改訳聖書には「民族は民族に」と書かれています。すなわち、これまでは米ソを中心としたイデオロギーの戦いが行われてきました。しかし、今や世界の紛争のほとんどは民族問題となりました。最近も世界がコソボ問題に注目していますが、この背後にも民族問題があります。先に触れた戦争や戦争の噂となる原因の多くは異なる民族間の対立です。
●飢饉
今朝も朝食を食べることができた私達に実感はないかもしれませんが、今日の世界の飢饉・飢餓はいまだもって深刻です。世界を眺めれば十分に食事を取ることができる人間の方が少ないのです。いいえ、この合衆国であっても、この飢えというものが深刻な問題として今日取り上げられています。かつての肥沃な土地から作物が収穫できずに、どんどんそれらが砂漠化している現実ということが世界各地で起きています。
●地震 私達の住むこの地域ではあまりこの地震を体験しませんが、ここ数年起きている東南アジアや南米で起きている巨大地震を私達は知っています。日本においては大きな地震が必ずくるという前提のもとに日々、対策が考えられています。
●宗教的迫害 2,30年前に私達は今日、毎日のように繰り返されている「自爆テロ」というものを想像もしていませんでした。言うまでもなくこの背後には狂信的となった一つの信仰があり、この勢力が衰えていくということを今のところ、聞くことがありません、いいやその力は年毎に拡大しているといいます。これらにより私達の将来、具体的な迫害が私達の身近なところで起きるかもしれません。
●偽預言者・宗教的混乱 キリスト教といいながら、その中で誤ったことを言い出すリーダー達がいます。それによってカルトに走ってしまうこともあります。また、もしかしたら今日、教会であっても、本来の聖書の本質的なメッセージが脇に追いやられて、そこに違った、例えば現世利益のみを追求することを勧めたり、政冶的なメッセージだけが主流となるとするならば、私達は本来の福音を見失い混乱していくことでしょう。
●道徳の低下・愛の冷ややかさの増大 言うまでもありません、このことが私達を悩ませています。道徳などない、愛は冷め切っている。血縁の間でさえ、私達はこれらのことを原因とする山ほどの問題を抱えています。
●世界宣教の拡大 そして、今までお話したようなことが世界各地で、身近な所で起きているということと並んで、今日ほど世界各地、隅々にまで宣教がなされている時代はありません。それが密林の中であっても、それがたとえ紛争只中の危険地帯であっても命をかけて、そこで宣教をしている人達がいます。
イエスは世の終わりには、これらのことが起きるだろうと言われました。そして、こう言われました。32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 34よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。35天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない(マタイ24章32節‐35節)。イエスはこれらの時が来ているのではないか、近づいているのではないかということに敏感になりなさい、アンテナを張り備えなさいと言われました。
そして、まさしく「その時」についてマタイはさらにイエスの言葉をこのように記録しています。
23そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。 24にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。25見よ、あなたがたに前もって言っておく。26だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。27ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。28死体のあるところには、はげたかが集まるものである。29しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
その時には私達の常識を超えたしるしや奇跡をする人が現れる。また、ここにメシアがいるとか、いやあそこにということがよく言われるようになる。でも、それに動揺するなというのです。そして、そのような時にキリストはこの世界にあらわれるというのです。イエスが天の雲に乗って来るのを、人々は見るというのです。
皆さん、このようなことを聞きます時に多くの私達は驚き怪しむのです。いいえ、嘲笑する人だって大勢いるでしょう。特にキリストが、この世界に天の雲に乗ってくるなどということになりますと、もう自分の体験とか理解というものをはるかに超えていますから、私達には受け入れ難い事なのです。皆さんはいかがでしょうか。
ここで一時、この場面から離れて一つの出来事に目を向けてみましょう。それは、マルコによる福音書に記録されている、真夜中に突如もたれたエルサレムの議会での出来事です。そこには祭司長を始め、律法学者達がイエスを取り囲むように集まって、イエスに尋問をしていました。彼らの心の内にある一致した思いはこのイエスを殺すということでした。誰かを公の場で死刑へと導くことを願う人達が願っていることは、その当人からその死刑に価する言葉なり証言を引き出すことです。そして、ほとんどの場合、その当人は偽証してまでも、黙認してまでも自分の不利となる証言はしません。なぜですか。
自分の命がかかっているのですから。
以下、その時の議会の出来事を読みます(マルコ14章55節‐65節)。
55さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするために、イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。56多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証言が合わなかったからである。57ついに、ある人々が立ちあがり、イエスに対して偽証を立てて言った、58「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。59しかし、このような証言も互に合わなかった。 60 そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。61しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。62イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。63すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。64 あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。65そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。
私達は時々、「言わなければいいものを言ってしまう」ことがあります。それを言わなければ、こんな状況に落ちてしまうことがないのにという発言です。イエスはまさしく、そのような発言をここでしたのです。その一言を聞いて怒った大祭司はその衣を引き裂いたのです。そして、その一言を言ったがために、イエスの十字架刑は決定したといってもいいのです。イエスの十字架刑を決定的にした証言は何だったたのか。
イエスは「あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と言われたのです。先ほど、私は「イエスが天の雲に乗ってくる」ということなどは嘲笑以外何でもないと思う人がいると申し上げました。もし、私がイエスが言った同じ言葉をウォーキング中や食事中に言ったのであるならば、皆さんは笑うなり、無視すべきでしょう。さらにもし、自分が何かしらの証言台でこの同じ言葉を言ったのなら、私は裁判官から心理テストを受けるように言われるでしょう。でも、私はその言葉を言うことによって、本当に自分の命を失うなら、口が裂けてもそんな嘘はつきません。
イエスはこの言葉を言うことによって、自分にどのようなことが起きるかということを知っていたに違いありません。すなわち、キリストが命をかけても譲らない証言がこの言葉だったのです。そのことを知る時に、少なくとも私達はこの証言を嘲笑することができなくなるのです。この言葉はイエスの命の重さ以上の証言なのですから。別の言い方をすれば、この言葉はイエスにとって嘘偽りや虚言ではなくて、本当に起こることなのですから。
このイエスが言われたことを私達は神学的な言葉になりますが「再臨」と呼びます。聖書はいつかキリストがもう一度、この世界に臨まれる、来られるというのです。そして、その時にキリストにある者は天に挙げられ、その他の者達はこの地に残されるというのです。その様をイエスは「畑で二人が働いていると一人は携え挙げられ、一人は残る。二人の女性が臼をひいていいると、一人は携え挙げられ、一人は残される」というようにと書いています。現代的に言うならば、オフィスで並んで仕事をしていると一人は携え上げられ、一人は残る。二人が共にスターバックスでコーヒーを飲んでいると一人は携えら上げられ、一人は残されるということでしょうか。
聖書はそれから、地に残された者達は今だかつて世界史にはありえなかった悪がはびこる時となると書いています。その時というのは、もう悪事を極めなければ生きていけないような大患難時代なのだといいます。ノーマン・キャンプという人は「もしも朝起きてみて、あなたの家族も友人もどこにもいない。もう彼らは携え挙げられてしまい、自分だけが残されたのだと気がついたら、その所で腹をくくりなさい。その時からしばらくはサタンの働きが縦横無尽に地上に吹き荒れるだろうから、恐らく命を捨てて殉教しなければ、救いにあずかることはできないであろう」と書いています。
私達に身近なCNNニュースがテレビ放映を開始するにあたり、会長のターナー氏は記者会見でこんな発表をしたそうです「衛星で問題が生じない限り、私たちは世の終わりまで放送をやめません。私たちは放送をし続け、世の終わりも生中継で報道します。それが私たちの最後の仕事になるでしょう。世界の終わりの時には賛美歌の“主よ、みもとに近づかん”を流し、放送を終了します」。
ターナー氏はとても興味深いことを言いました。わが社、CNNは世の終わりを生中継します。今日、CNNが放映されない国というのはほとんどないと思います。このテレビ局がキリストの再臨を映し出す。およそ信じがたいな話です。しかし、そんなおよそ信じられない映像を私達はすでに1999年9月11日にテレビやコンピューターの画面上で世界同時に体験しているのです。
皆さん、冒頭に申し上げましたように私は人の恐怖心を煽って、その人に信仰を勧めようとは思いません。でも、今朝お話したことは足すことも割り引くこともなく聖書が言っていることなのです。あなたは明日、その日が来たとしても、キリストと共に天に携え挙げられますか。それとも、あなたはこの地に残されるのでしょうか。CNNが流すと言っている“主よ、みもとに近づかん”を口づさみながらあなたはキリストに合間見えるのでしょうか。それとも世界中から中継される混乱の映像を呆然と眺めつつ、その場に立ち尽くすのでしょうか。
イエスの一番弟子であったペテロはこのような言葉を残しました。
Ⅱペテロ3章8節‐14節
8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。9ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。10しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。11このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。13しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。
もし、明日、まだ主がこの地にこられないのであるならば、それには理由があります。それが昨年でなかったことには理由がありました。その理由は、私達が誰一人として滅びることなく、キリストにあって救われるためです。
ある本に見習い修行中の悪魔の弟子達のことが書かれていました。この弟子達は地上に派遣されるに当たって、その悪魔の頭にどうしたら人を堕落させられるかを尋ねられるのです。言わば卒業試験というものです。第一の弟子がいいました「私は人間に神はいない」と囁きます。「そんなことでは人を騙すことは出来ない。多くの人は神の存在を感じている」第二の悪魔は「私は地獄などない」と囁きます「そんなことで騙される人はいない。人間は心のどこかに自分はしたことはいつか裁かれるのではないか」という恐れに生きている。第三の悪魔が言いました。「私は急ぐ必要はない」と言います。すると頭は言いました「行きなさい。お前は多くの収穫を得ることができるであろう」。
聖書は言います。「万物の終りが近づいている。だから神に立ち返れ。その日が来ても恐れ慌てないように」でも私達の心は語りかけます「なぁに、急ぐ必要はない」。
コリント第二の手紙6章2節においてパウロは言いました。「みよ、今は恵みの時、みよ、今は救いの時である」。まだ今は神の恵みが私達に注がれている時なのです。今は救いの門が開かれているのです。
ですから・・・
「きょう、あなたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなた方の心をかたくなにしてはいけない」(へブル3章7,8)
あなたは主の日が明日、きても大丈夫でしょうか。
お祈りしましょう。

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