牧師になって13年。日々、学んでいます。この間に私なりに気がつかされていることがあります。
今日まで牧師でなければ会うことのない人達との出会いが数多くありました。その中には電話で一度、話すだけで、以降お会いすることのなかった方もいますし、今も長くおつきあいをもたせていただいている方もいます。お話した内容もまさしく様々です。
そんな出会いを牧師として体験させていただきます時に、いつまでもお天気の話や野球の話をしているようなことはなく、その方が抱えている核心にも触れるのですが、そこで気がつかされていることは、私の前にいる方が、ご自身についてどのような思いをもっているのかということが、その先の係わりにおいてとても大きな意味をもつのだということなのです。
すなわち、その方が「自分は正しいのだ」とする立場に断固、立っていらっしゃるのであるならば、そのところは本人以外にはアンタッチャブルな領域ですので、その先の道は閉ざされてしまい、その心に変化がおきるまで、こちらは「信仰の祈り」を続けることになります(神が必ずその心に語りかけてくださることを信じて・・・そのような意味では前に進んでいるのですが)。
このことを明らかにしているのが、聖書の中でイエス・キリストとその係わりの中にいた人達であり、自らを正しいとする者とイエスの間にさらなる関係の発展はなく(かえって、その間に大きな軋轢が生まれ)、自らの過ちやいたらなさを知る者達は、乾いた心に命の水が十二分に注がれて、イエスと豊かな関係にはいっていきました。
世は「なにがなんでも自らを正しい者とする」という流れのなかにあります。そこは、とにかくこじつけであっても何であっても自らの正当性を主張する場であり、時には声の大きいものがその座を保ち続けるような場所であります。このような世界にあって、自らの否を認めていくということは、ますます難しく思われますが、そのところを通らない限り、神の懐に飛び込むことはできないと思うのです(既に手は差し伸べられているのですが)。
いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者。その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす。 聖書:イザヤ57章15節
自省しつつ書かせていただきました。
マック
最近のコメント