そこで最近、とても気になっているのが、談志さんが残した「落語とは人間の業の肯定である」という言葉。そう簡単にご本人が言わんとしていた意味を理解するのは難しいでしょうが、とても気になる言葉です。
そこで、色々調べたところ、手がかりになりそうな、さらに興味深い氏の言葉に出会いました。曰く、「忠臣蔵」を例に出して、普通は赤穂藩の四十七人が脚光を浴びるけれど、実際には赤穂藩には家臣が300人ほどおり、残りの多くの者達はきっと悪く言われただろうと。そして、落語ではその逃げちゃった者達を主人公としているのだと。逃げちゃったと言うことを認めてやるのが落語だと。
そうですか、そうですか、そのような方面から人間を見つめるなら、これは全く聖書の話ではありませんか。。アブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨナ、エレミヤ、エリヤ、ペテロ、ユダ、マルコ・・・12弟子・・・。これみんな、逃げちゃった人。聖書はそんな逃げちゃった人の生涯を追い続け、神はその業を包み、再び立たせるお方として書かれている!
マック
追伸:イエス・キリストは業と共に生きる人間を抱擁し、しかし、その業は肯定せずに、その業ゆえに苦しむ人のために命を投げ捨てた情(愛)あるお方。あらら、これって、通じるんじゃない、日本人の魂に!落語、もっと聴いて学ばないといけません。

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