ここ何日か、病気の方々を見舞うために、病院や家庭を訪問することが多い。
私達は肉体と精神を持ち合わせて生きている。そして、肉体が弱ると心も弱り、心が弱ると体も弱る。故に私達は心配事が解決した時に「肩の荷がおりた」というし、体の不調が直ると「安心した」という。
病床にいる方々はこの二つと戦っている。とかく私は自分が牧師であるために、「心」のことばかりに目がいきがちだが、そうではないということをいつも肝に銘じたいと思っている。
なぜなら、バイブルは私達の肉体を、とても大切なものとしてとらえているからだ(これは、ある方々にとっては驚きかもしれない)。その証拠にバイブルは、人間がもつ様々な問題、例えばディプレッション(意気消沈ーバイブルにも憂鬱と戦った人達がたくさん登場します)に対しても、「それは信仰が足りないからだ」という一言で片づけてはいない。時には「食事をよくとりなさい、そして、ゆっくり休みなさい」ということが大切なアドバイスとして書き記されている。そして、私はそんな優しい言葉に「肩の荷がおり、安心することがある」。
病床にいる方々を訪ねる時、「弱い肉体と心」を持った人間が、「肉体と心で戦っている」方を訪ねさせていただくのだという気持ち、そんなものを大切にしたい。
マック
憂鬱と戦った人達: 旧約聖書の中にエリアという大胆不敵な預言者が出てきますが、彼は大きな成功の後に、とてつもない疲れと虚脱感を感じて、神にこう願っています「主よ、もはや十分です。今わたしの命をとってください。」。彼は今で言う「バーンアウト」を経験したのかもしれません。
その時、神は彼に何をしたのか。「お前はまだ甘い、信仰が足りない」と一喝されたのか。いいえ、神は天の使いを通して「パンと一ビンの水」をエリアに与えられたのです。そして、彼はそれを食べ、飲んで眠りました。そして、しばしの休息の後、天の使いは再び彼のもとに来て言ったのです「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」(列王記上19章1節以降)。こうして、エリアは、この休息の後、また立ち上がっていきます。
「起きて食べなさい。道が遠くで耐えられないでしょうから」。この一言は神の言葉というより、父母の子に語られる言葉でしょ。だから私達は天を仰ぎ、「父なる神」とその名を呼ぶのです。
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